膨らむひとりごと

日々の散文

消費される祭

 

先日レポートで書いたことを少し改変して貼る。

まだまだ書きたいことあるけど全四編。

そのため文章は固い(笑)

 

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 現代における人間の在りようは非常に多様であり、地球上に生きる人間像をこれと括ることが以前より一層難しくなっている。世論は先進国、後進国または西欧、非西欧といった二項対立の文脈で社会問題を語りがちだが、そうした切り分けをすることによって本来の文化の差異以上に大きな分断や無意識下での優劣意識を生み出しているのはいうまでもないだろう。

妖怪やシャーマニズム、呪術といったものがこうした分化された社会の中でどのような意義を持つのか、各諸文化に対応した現実論だけではなく人類という一生命を含んだ地球においてどのような意義があるのかを考えてみた。

 

 

宗教のイベント化

 

 どれだけ人間が変化し多様性に富んだ生き方をするようになっても、現生人類の先祖であるクロマニヨン人から受け継いできた宗教への関心は今日においても人間の文化を為す核となっている。グローバル化が進む昨今では、本来の意味や風習を知らぬまま取り入れた形ばかりの祭事が増え、エンターテイメント化し消費される文化になりつつあることは否めない。

特に日本では多種の宗教祭事が入り混じった特殊な環境下で、文化の出どころを問う暇もないくらい日々何かしらの「イベント」が発生しているのだ。元来シャーマニズムや呪術といった儀礼を纏い重んじられていた意義は消失し、それらは付属品であくまで「ポーズ」として残されているだけである。いや、ポーズとしてでも残されていればまだ良い方といえるのかもしれない。

イベント・エンターテイメント化された儀礼の多くは資本主義による経済的成長や発展のために拵えられたものであり、人々はそれを薄々感じながらも未だに多くの祭事にこだわるのは一体なぜなのだろうか。そうした背景に焦点を当ててみると、妖怪やシャーマニズム、呪術の文化が形を変えても今日に残る一つ目の意義を見出せるのではないかと考えた。

 

 日本で一年を通して行われる主な祭事を振り返る。正月、節分、バレンタイン、桃の節句、お彼岸、ホワイトデー、端午の節句、七夕、お盆、お彼岸、ハロウィン、クリスマス、冬至…。

改めて挙げてみると毎月ここまで何かしらがの行事が控えているというのも大層なことであり、様々な宗教や風習のカミ・精霊に祈り、死者を送り迎えする日本人の精神構造は不思議なものだと思わずにはいられない。

 

この年中行事からわかることは、

どれだけ人類が近代化しても、生死に関しての祈念や願望成就が非常に重要な意味を持ち続けているという点だ。直接的なカミや精霊の信仰ではなくとも、祈る行為を何かしらの形で続けることに意味があり、自らや親族が護られ安寧が訪れることをどこかで期待している、ということだ。

それこそが形骸化されイベントとして消費されることとなっても残り続ける宗教祭事の大きな意義なのではないだろうか。

 

つづく。