ふつうの日記
刺すような日差しを跨いでわたしはどこに行くでもなく、朝目覚めた時にふと頭の中で囁かれた神社へ向かった。特別な神の言葉を探すわけでもなくあっという間にお参りは終わり、これといって何も願わずに何となく来ました、と挨拶をするためだけに行った。パワースポット的な商売っ気を感じ神社は形骸化しているな…などと思いながら境内を抜けるのはいささか申し訳なさも感じたが致し方ない。本当にそう思ったのだから。

あまりの暑さにともかく涼しい場所へと駅前のカフェに入った。何の変哲もないチェーンのカフェ。何だか落ち着かない。なぜだ。場所も居心地もそう悪くない。
ああまただ、と思った。この所在のなさ、一致しない感覚。
三箇所も席を替えながら、じぶんの実感が今ここから薄らいでいることに気がついた。
気がつくのはいつもこれが始まってからだ。遠のいていく肉体の感覚。クリアな夢の中にいるような目の前の情景。一体全体、わたしはまたミルフィーユのどこかを移動しているのか、今回はわたしの方が変わっている最中なのかその区別さえつかない。
ともかく妙な気持ち悪さが続いていく。暑さにやられたせいとも考えたが体は至って健康で、気持ち悪いといっても内臓が原因でないことは確かだし、女性ホルモンの周期的な影響でもない。
段階を追ってじぶんの行動を振り返っても、特筆して変わったことも起きていない。何が起因してまたこうなってしまったのか、その原因をぐるぐると考えると余計に気持ちの悪さが増すような気がして、あえて世俗に引っ張り戻されるような話題を探しにSNSを順に見て回る。しかしこれといった効果なし。
無自覚にわたしはじぶんの肉体から離れようとしていることが昔からままあるし、そこに追い重なるようにして、現実の輪郭が曖昧になり今ここがどこなのか、どの世界線にいるのかがわからなくなる。もちろん地名や場所や時間は真っ当に現実の一部として機能し、動き続けている。何だか書くと大層になってしまうが、この現象そのものはわたしにとっては当たり前すぎて、現象そのものが大変なことだと思ったことはないのだ。
でも客観的に考えると、冷静にじぶんの頭がやはりおかしくなってしまったのだろうかと心配になる。心療内科?それとも脳神経科?精神科?
「ふと気づくとわたしがわたしから遠くなり、この現実はどこの世界線かわからなくなることがあるのですがどうしたらいいですか?」そんな質問をするじぶんを想像して馬鹿馬鹿しくなった。まともに取り合おうとする医者に同情するくらいだ。でもそんな心配を一回挟めること自体がまだ理性としてマシなんだとしておきたい。
かつて中学時代じぶんの意識が遠のく現象を精神科医に診てもらったところ「離人症」という診断をつけられた。原因は強いストレスによる現実逃避を脳が起こす故らしい。しかし、今になってみると確かにその当時は強いストレスにさらされていたが、今はそんなストレスもなく(というか年々環境因子によるストレスは軽減しているとおもう)あえてそんな脳のバグを今起こすメリットはないだろう。
そんなことを思いながらわたしはぬぼっと冴えない頭のまま適当なバスに乗り近所の駅までたどり着いた。このまま家に帰ったところでしょうもないことに変わりはなく、ひとまずゆっくりと腰を据えて休めそうなカフェを探し一息つくことにした。幸いなことに仕事は大方終わらせていたので急を要すこともない。取り留めもなく手帳にここまでの状況を書き殴った後、今のじぶんの所在のなさ、実感のなさを埋めるためにこうしてまたキーボードを叩いて何とか気を取り直そう?と真っ昼間から足掻いている。
何のオチもない。何の変哲もない。でも不可思議な感覚だけがじぶんをブヨブヨと包み、逃してくれないのだ。それとも逃したくないのはわたし自身によるものなのだろうか。寝たらこの気持ち悪さは終わるのだろうか。この感覚に進展や終わりがあるんだろうか。
追記
カフェの座った席の隣に大きな時計があった。ぼんぼんと揺れる時間を眺める。

特に何かが起こることもない。物語だったらこの時計が鍵になりそうなのにな、なんて思いながらわたしは頭を整理するために意味もなく「しまむら」に行き服を物色しながら気持ちを落ち着けようと試みた。
そうしてまたなんとも形容し難い一日が終わったのだ。
ミルフィーユを行き来するのはいつ
世界はミルフィーユ状にできている気がするとある時からぼんやりと思い始めた(ある時が一体いつのことだかは思い出せないけどかなり子供の頃)。
以前はビヨーンと層のように一定間隔で重なりその層を単純に往来するのでないかと感じていたが、最近は繭の様な系が薄膜になり、そして幾重にも重なっているんじゃないかと細部を想うようになった。そこに果てはなく縦横に広がり、目を凝らせば至るところに無数の交錯点がある。そんな透明な点と線を繋いだメビウスの輪の中を日夜動き続けているのではないか、と。しかし私たちは基本的にそんな膜も交錯点も眼を使って見ることはできない。どこにあるかさえ物質としてはよく掴めない(というか多くの人間にとっては意識にすら上がってこないレベルで生活しているんじゃなかろうか?)

わたしの主観でただ一つ言えるとするなら、”移動した”ことはよくわかる。移動という言葉だと地点Aから地点Bに動いたという様な認識になりそうだが、実はちょっとニュアンスが違う。当たり前の景色、当たり前の物や人や場所なのに「違う」とわたしの脳は認識している。例えるならAとA'。
一見は全く同じなのに、同じではないと感じる"何か"がそこには起きている。それは、生活における流動的な変化ではなく、非常に似ていても全く違う何かになったという意味だ。分かりづらいので便宜上「移動した」と書くことにしているけれど。
ただそれはどんな根拠を持ってしても証明はできないのだろう。今のところ。
でも確実に、ふと気がつくと全く同じに見えた違うところに移動「した」んだと気が付く。
これは至って真剣な話で、観測や認知の問題でもあるかな、と。
肝心というか現状の問題の要としては「移動した」時にしかそれが気づけないということだ。「している」または「する前」をわたし自身が認識することはまだできない。気づくときはいつも「した後」なのだ。
問題を仮定したときに以下の3つにまずは大凡は絞られるので、簡単にまとめてみる。
・移動「した」と感じるタイミングはいつなのか
・移動「した」と感じることの前の事象に共通点があるのか
・移動「した」と感じる場所や時間に共通点はあるのか
・移動「した」と感じるタイミングはいつなのか
普通に日常生活を送っているとき。道を歩いていたり、家にいたり、特別なことは何もしていない。ごくごく日常的な動きの最中にふと「あ、移動した」と気づく。
・移動「した」と感じることの前の事象に共通点があるのか
特別変化の大きい行動や心情が揺さぶられるようなことがあるわけでもない。強いて言えば、なんだか楽しかったなあ〜と思った出来事の後や気分が良いときに移動することが多い気がする。ただ反対に特段心も揺さぶられずPCに向かって仕事をし終わった後に突如移動していたこともあるのでなんとも一概には言えないのだ。
・移動「した」と感じる場所や時間に共通点はあるのか
一種の基準として、生活圏内は自分の認識の違いに敏感になるのではないかとおもう。真新しい土地に行って感じる時もあるが、それは少なからず新しい場所や物、人に対しての新鮮な驚きや感動も含まれるので純粋に「移動した」とも言い切れない。その点、日々の生活で家に帰ってきて「あ、全く同じ違う家に移動した」なんてことは何度となくあるし、馴染みのスーパーからの帰り道に「移動した」を感じる時は比較を実感しやすい。
仮定がまだまだ全然初歩段階すぎて何もまとまったことは言えないけれど、この論に自分で反論するのならこの現実を見ている「わたし」自身がいつでも一義的な、同質の存在だとは定義できない。わたし自身が定点でない以上「移動した」を感じるわたしそのものも変化の最中で一体どう何を「同じ」だと言えるのか。何を持って「移動」で「違う」のか。
更に時間が一定方向に流れているわけではなく、同時多発だったり伸び縮みがあると思っている
(この辺りの記事にも書いてる)のでそう単純に多重世界だ!いえーい!みたいにも思えない。ますますややこしくなってくるのだああ・・・。
ただわたし自身にとってはこの「移動した」「違う」という感覚そのものは非常に確かだと言いたい。(改めて確かだと言える根拠なんて0だけど)その上で、移動によってパラレルワールドに行ったわけでもなく、大きな変化が突如として訪れたとか、そういうドラマチックな展開の話ではないが小さな変化というものはいつも天体の小爆発と同じくして起きて流れているはずだ。それを私たちが認識するかしないかは別の話として。
今までのところ”数多のわたし”と”数多の世界”と“数多の時間”が往還できる関係にあるものだと思って生きてきた。緊密に張り巡らされたその見えない繭の糸の皮膜はミルフィーユ上に今ここにも、静かに音もなく存在している。それを個人的な了解でなく、証明することになんの意味があるのだろうとも思うが、わたしのぐにゃぐにゃな生命の原点みたいな形のない形を人間として確かめようとするとき、この感覚は切っても切れないもので、肉体的に死ぬまでのうちにある程度自分が体系化できたらいいなと思っている。
まあ、ここまで書いてなんだけど、頭と精神のおかしい人の妄言で片付ければそれで終わる話になる(笑)ただおかしいものをおかしいと判断する人がおかしくないかどうかは誰にも本来判断できないだろうと思うので、わたしはまだまだ頭と精神のおかしい人として本気でこの事象を自分で分析し続けたいのだ。
当事者研究は続く。
ぴょかぴー
ぴょかぴーぱんぽろぱしもーど
ぶれとぱれかぷーんちぽれる
ぱーりぱぽんてぴぷるぽーだ
cresmendo bassouti da
mendaltino fo alidanve
pocipovikokichi
シュペポロンパバンヒ
ガンドルデ サンバビー
キャラテノキャラテノ
ササリサンソーネピー
なにを読むでしょうか
なんと読むでしょうか
なにか意味は読み取れたでしょうか
正解は
なーーーーーーーーーーんの意味もないんだ〜〜〜ぜ〜〜〜︎︎︎︎✌︎
ぜーんぶデタラメで思いつく音を文字化しただけなので言語の意味も文脈もない。
超どうでもいい超なんでもない
ただの羅列、流れていく文字たち。
こういう擬音がしょっちゅう頭の中に流れている(特に朝起きるとき)ので擬音を思いつくのが特技かもしれない。
ただ口に出すとなんか気持ち良いふしぎ!いつまででもポロポロでてくる
言葉の意味や文脈が死んでも音としてすきなことばはあるんだよなあ、それが連なったり切れたりするとおもしろいな。言葉でことばを論じることがバカらしくなるので想念は擬音になるのかなとおもいました。でも意味はなにひとつないのがいいね。ただ流れて消える。

オチはないです。おわり。
老いと諦め
私の祖父母(祖母×2 祖父1)は90歳近くなっても未だに健在だ。
もちろん年相応に体も心も日に日に少しづつ、ゆっくりと死に向かってはいる。それでもまだまだ自力で体は動くし、意識も記憶も言葉もハッキリしているのだからその年代から言えばかなり元気な方だといえるのではないだろうか。

祖父母に対してわたしは大したことは出来てない。けれど日々のちょっとした手伝いや、困り事、何かしらのヘルプに対してはできる限り応えたいと思ってやっている。
その中で、この数年特に祖父母に思うことは
「自らを諦めないでほしい」ということだ。
もっというとじぶんのことを「こんなものだ」と見限るのはじぶんに対して失礼だし、「こんなものだ」なんて線引きはいつだってそれが本当かどうかなんてわからない、勝手に可能性を決めているだけのことだ。それが何歳だって誰だってそうなのだ。
正直老人の肉体・精神状態などわたしには体感することができないので実際のその苦労や悩みなど察することしかできない。その中で「諦めないでほしい」と思うのはわたしの勝手でしかない、というのも重々承知している。
でもわたしは無理強いのスポ根的な「諦めないで」を言っている訳では決してない。
そうではなく彼らがもっている
「本当はまだ生きていたい」「本当はこれができたら楽しいのに」「あそこに行けたらうれしいな」という望みそのものに対して自ら早々に諦めに入って欲しくないのだ。
本当にそう思う。
自分の意図や意思通りに体が動かない
今まで慣れていた様に物事が進まない
それに対して周囲に迷惑をかけてしまう
自分だけ周りから置いていかれる様な気がする
それでも、本当は本当はたくさんの小さな望みが生まれて消えていく。
そうした人たちの気持ちや虚しさと苛立ちを、どこまでもわたしは想像することしかできない。でも何れじぶんだって、誰だって遅かれ早かれ「そう」なっていくのだ。
善意で何かをするというより、一抹でも望みを持っているのならそれを聞きたい、引き出したい。
本当は、本当はどうしたいのか
本当に諦めなくてはならないことなのか
本当にじぶんが思っているほどダメなのか
歳を取ること自体、経験と共に諦めや妥協や辛酸を舐めてきているのだと。それはそうとして。
でも本当はこれやりたい、って思ってるじゃん!
本当はここ行きたいって感じてるじゃん!
これが出来たらいいなって悩んでるじゃん!
そういう気持ちを、色々な会話の端々や行動から受け取るとわたしはどうしても「仕方ないよね」とは言えないし、思えないし、言いたくないのである。「やってみようよ、できることから、一緒に手近なことからできることやろうよ。そんな思ってるほどダメじゃないかもしれないよ!」と誠に勝手ながら言いまくって提案している(笑)
なのでわたしが出来ること、わかること、手伝えること、提案できること思いつく限りしてみるのだ。それで多少煙たがられても、あしらわられてもなんのその、だ。こちらから真剣に問い続けて、理想の100%でなくたって、ほんの少し今よりも「これなら、なんかいいかも…?」と気持ちが明るくなったり、ほんの数ミリ実生活が心地好くなったり、困っていたことがスムーズになったり。大きなことではなく本当にちょっとした小石が退くことで突っかからずゆっくりマイペースにたのしく歩けるなら、その方が彼らの一瞬一瞬が生きやすくなるし、わたしもうれしい。結果みんなハッピーじゃないか、と思う。
本当に些細な事の積み重ね。
わたしは大谷翔平ほど稼いで孝行しているわけでもないし(笑)何か大きなものを返したり、出来ているわけではないけれど
ご飯を作ってみるとまだ美味しく感じたり、食べることも悪いことじゃないかもと思ってもらったり
スマホが分からないなら使い方を紙に書けば分かりやすくて生活がスムーズになったり
耳が悪くなればそのサポートの仕方を考えたら会話がしやすくなったり
本当にその程度でしかないけれど、その程度のことの小さなことの積み重ねが「なんだかもう少し大丈夫かもしれない」「まだ出来ることはあるかもしれない」とじぶんの可能性に制限をかけずに少しでも生きることによろこびやたのしさを感じることに繋がるんじゃないかとわたしは信じている。
先日は食欲がなくなった祖母にオムレツをつくったり、今日は耳がほぼ聞こえなくなってしまった祖父と祖母の意思疎通をするのに一緒にタブレットを見に行ったり、スマホの音声入力の設定をしてあげたら随分ほっとした様な、嬉しそうな顔をしていた。
別に劇的に何かが変化した訳ではないけれど「これならいいかも?やれるかもしれない」とそういった片鱗が感じられたことは確かなのだ。それが各々のじぶんの生きることを諦めない、日々を過ごすうちの何かになってもならなくてもまあ悪くないかもね、と思えたら御の字。
ダメでも諦めてもそれはその人の人生だけど、わたしはじぶんが思いつく出来ることはしたい、という自分勝手な気持ちそのものを善意の押し売りではなく、本当にその人が望むことの数パーセントでも叶える手伝いができたらうれしいなと思う。
そしてそれは年齢でもなんでもなく人類みな等しくそうなのだ。
宇宙は138億光年からしたら人間の老いもクソとカンケーないぞー!というのが定型文。
being

あるものは、なるものではない
あるものは、在るものとして。
ことばにはならない、なんだかわからない
けど確かにある「なにか」 でもこの「なにか」は神や霊的な存在では断じてない。
でもその「なにか」そのものを客体にするのではなくわたしがその「なにか」、そのものである状態。
そういう状態として常に流れていたい。
文化人類学の中で人間のことをあえて、humanbeing と英語で表すことが度々ある。
それは人間と非人間の存在を区別する必要があったりする場合などに。
でも、わたしはそのことばを捉え直す度に、「ある」に焦点が定まっている様な気がするのだ。

その上で、そんなことも含めてわたしたちの存在そのものとはなんだろうとずっと
概念やことばでは決して表すことのできない
「なんだかわからないなにか」をずっとずっとこどものころから追いかけ続けている気がするのだが、最近またほろりほろりとその謎が明るくなってきた。
生か死だけには分別できないその微妙な間にあるもの
その内側から外側にかけて流れていくもの
その空間をつくるもの あるもの
流れて変化し続けているもの
時間と言われる時間ではないそこにあり続けるもの

今日もいつもの散歩道で、お気に入りの場所にふらっと立ち止まっていたらその「なんだかよくわからないもの」が急にぐっと開けて、こちらの存在に気づいて微笑んでくれた。その瞬間にほんとうに泣いてしまった。わたしもなんだかよくわからないものに一瞬同化して、そしてまたわたしで在る方に戻ったようだった。
ミクロな呼吸 マクロな呼吸
いま いま いま いま
さんぽしていろんな音が聴こえると
音って究極の時間だよなあ
本当に音を聴くっていうのはいまこの瞬間にいようという意思だなとこの前思った。

「今この瞬間 今ここ」
はもう使い古されすぎていることばに感じる。どうやったらそれに変わるもっとピッタリくることばや説明ができるかなあと考える。でも今のところ良いことばがまだでてこない。
息を吸って吐く それを毎瞬丁寧にする。
意識しても、いなくてもわたしたちは、生き物はみんな息をする。
息を吸って吐くことは当たり前になっているけれど、宇宙から地球に与えられた最強最高の力じゃないかなとおもう。
なぜなら、その中には命も時間も自由も幸せもなにもかもつまってると感じるから。
でも地球では何の意識もせずとも息を吸って吐いている、改めて本当にすごいことなのに。人間だけじゃなくあらゆる生き物が息を吸って吐いている。それをひとつずつ観察して受け取っていくととてつもないエネルギーがあるなあと何度でもそれぞれの存在自体に言い難い感動が生まれる。
海に行くと海も呼吸をしているし
その辺の住宅街にある草も、道を歩いているアリもああ呼吸と共にあるなあ
わたしたちは呼吸をお互いに生成しあっているなあと。
別に「生物多様性」などという改まった言葉を用いなくても十二分に実感することができる。

息を吸って吐くことは今この瞬間に存在しつづける
常に、呼吸には今しかない。
過去も未来もない。思考も概念もない。
余計な重たさを持たずに、自我の無駄な精神の介入をせずに、頭のおしゃべりをやめて今に全力でいられるだろうか。
今この瞬間、息を吸って吐くことでじぶんの命のエネルギーをいつだって感じていられるだろうか。
それが今のエネルギーの密度になり、その空間や時間や「私」ひいては「私たち」という存在をも飽和して伸縮自在に流れ広がっていくんじゃないか。
わたしにとって「時間」は最大かつ永遠の疑問であり、地球にいることを知らしめ続けるものなのでもう、ずっとずっとずっとずーっと色々な角度から時間を探り続けている。それでもじぶんの中でしっくりくるものには中々たどり着けていない。 でも私たちが認識する時間は、本当はおもっている時間とは別物なんじゃないだろうかと最近つくづく思うことが増えた。
けれど時間を概念やそもそもの大きな宇宙や地球の星の流れの中のイメージとしてではなく(それはそれとして好きでおもしろい)
そこに連続して影響しあいながら、この個体としてのわたしの中に起こる時間のミクロスケールはいまこの瞬間息を吸って吐くこととすると。
もっといえば吸う中でも吐く中でも更に細かく様々な感覚が起こることも全て含めてその場所、その自分、あらゆる内外界の対象物が関連し合ってそこに存在し続け、連続しているように思えていることがクリアに感じられるといまこの瞬間そのものの明晰さや深度がものすごく体感として豊かに拡がるようになる。
いつもそうありたいけど、社会に取り込まれかけると、そうあれない時もある。でも、とにかく息を吸って吐くこと以上に大切なことは本当になんにもないし、命も時間も自由もなにもかもつまってると絶対的にわたしはおもっている。

息を吸って吐く
いきをすってはく
こう書くいまこの瞬間にも呼吸を当たり前にし続けて、空間はわたしをそこに連続させる。
わたしのミクロな時間の流れと星や宇宙のマクロな流れは違うように見えてその質は同じじゃないかな、なんて思う。
今この瞬間、で居続けると
体の中に無敵で無限だなあと何かが流れて満ちていく。
#過去投稿に時間と呼吸のことはたくさん書いているので見てください。
波立つ中にいる
今日こんなことを思いました。
「一々傷ついてたらやってらんねえ!」と往々にして人間は言い、そうではない=強くなった、と思っている節があるけどそれは鈍くなっているだけのように思う。それに正確には傷つく、ではなく感覚が波立つのを感じることに耐えられないから、鈍くなる事で日常の摩擦が減ったように感じさせているのでは
— komainu (@komainu_8888) 2024年3月22日
きっと強くなりたいとも、鈍くなりたいとも多くの人は願っていないだろう。
でも特別にこれ、といった意思を持たなくても人間はあらゆる場面で少しずつ環境や他者から影響を受けて自らも気づかないうちに変わっていく。でもその変わっていく瞬間そのものを逃している様な気がする。変わら「される」と、変わって「しまう」の中間にある、自分と世界の間のぬかるみの間をズルズルと日々の「何か」に忙殺されていくのだ。それが強さや鈍さという言葉で加工されてあたかも真っ当に生きているように錯覚していく。

感覚が波立つことに耐えられないのは、波の上にしかいないからだ。
波のもっともっと深い部分に、奥へにいくと、そこはとても静か。
静かな中にとても小さな音で何かがきこえる。何かがみえる。
それをよーく よーく、大切に 大切に、ひとつ ひとつ拾っていくんだよ。
本当はいつだってじぶんがそこにいることを思い出すんだよ。
ってわたしの中のなぞの宇宙人が言ってました。
おわり。
ほとんど言わないことと、いつも思うこと。
表立って言うことも、書くこともほとんどしないけど
人や何かと接する時にいろんなものを視ているじぶんがいます。
「みる」って直接的な物質や表に出ているだけではないろいろなものです。嘘くさい感じが出るのも嫌なので全体的にオブラートに包んで書いてみます。

正直そうしようと意図的にしているわけではなく自動的にそういった感覚が働いている、の方が近い感じ。
ただそれが内容的に心地が良いことばかりではなかったりするので、じぶんの中に多くの場合は留めて終わりにしています。
内容はそれぞれですが、結論として相手がわたしに伝えるはずではない、言っていない、見せていない=要は無意識に隠しているものをこちらが勝手に受け取っていることになるので、それをじぶんの方から相手に確証を取りに行ったり、チラつかせる様な行為は害悪だなと思うのでしません。(過去にいろんなことを正直に言ったら相手を驚かせてお互い嫌な思いをしたので)
それにそういう事実があるのだ、ということをふりかざして人に接する時には既に自分がマウントを取った状態でコントロールしようとしているなあと思うので、また二重に嫌な行為でしかないなと思うのです。
本当にごく稀に頼まれてのみ、その人や出来事を視たり何かを伝えたりすることがあります。そういう時はちゃんと正面切って包み隠さず伝えます。まあ稀でしかないし、別にわたしは占い師ではないけど精度はとてもいいと自負しています。
ただそれを表立って言ったり、生業にしちゃうといろんなめんどくさいことや雑音が増えるのでしません。そして世の中にいる本当に視てる人は「占い」という肩書きを持たない人です。(まああんまり書くと顰蹙買うね、、笑)
ただじぶんが私生活上において、いろんな意味で感じたりみたりしたものを消化する時に、もしそこにじぶんのエゴからの保身や損得勘定、自他を尊ばない選択から事を終わらせようとしているのだとしたら、隠さないで伝えるというのも大切なことだなあと最近とても思いました。
それは特殊に何かを感じ取っているかどうか、ということよりも緻密にじぶんの、相手や出来事の違和感にも気づいていることをないことにしない、ということです。結果的に波風が立つ様なことだったとしてもそうした小さな、微細なズレや不一致感、不快感に気がつくことは日常の意識そのものをどれだけ自分自身が丁寧に扱っているかだと強く実感します。
この社会だと事なかれ主義になりがち、というか多少我慢しても、多少あれ?と思ってもそんなこといちいち気にしたり、突っかかっていたら生活するのが大変です。それにはっきり言って世の中の仕組み的に損するのだと思います。だから、みんな無意識にそうした部分を亡くして鈍くして生きていくのでしょうか。逆にわたしはそういう社会的なものに則せなかったので子供の頃から本当に大変でした。今でも大変ですけど、まだ昔よりかは自分がじぶんのままで過ごしやすくなれました。
でも、本来はもっとみんな生きて行く中での自身の感覚(精神も、身体も)立たせて一つずつ気づくことができたら、少なくとももう少し色々なことが大切にされるのではないかなと思います。あまりにも一つ一つの行為や出来事が蔑ろにされたり、些末なことにされ過ぎているなと。
蛇足
何度も書いているし、常々思っているけれど
生きていることの最大の豊かさは、今ここそのもので生きられるか、感じられるかだと思います。そしてその最たるものが呼吸だと。
それは頭で、思考として、経験として積み上げられるものではないという側面を持ちます。だから「なんでも最短・確実に、右へ倣え」の方法論的な生き方では多分限界がある部分です。なぜなら己に問い続けなければならないことだから。
じぶんだけの今ここでの瞬間はじぶんの存在する、相対する世界にも、他生物にも同じだけ存在します。それぞれに「今ここ」という瞬間がありながら、同時に関連しているのだということが身をもって体感できるときっともっといろんなことにやさしく、強くなれるのかなと。わたしもまだまだその修行の最中ではあるけれど、いろんなことに正直に生きていると、いろんなものが視えるのだと思います。
なのでもっと視たり、聴いたり、感じたり、考えたりできるようになれたらいいな、と。
地球に生きててよかったと思える日々を過ごしたいなと誇張表現でもなんでもなく、小さな部屋の中から今日も思うのでした。