膨らむひとりごと

日々の散文

ふつうの日記

刺すような日差しを跨いでわたしはどこに行くでもなく、朝目覚めた時にふと頭の中で囁かれた神社へ向かった。特別な神の言葉を探すわけでもなくあっという間にお参りは終わり、これといって何も願わずに何となく来ました、と挨拶をするためだけに行った。パワースポット的な商売っ気を感じ神社は形骸化しているな…などと思いながら境内を抜けるのはいささか申し訳なさも感じたが致し方ない。本当にそう思ったのだから。

 

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あまりの暑さにともかく涼しい場所へと駅前のカフェに入った。何の変哲もないチェーンのカフェ。何だか落ち着かない。なぜだ。場所も居心地もそう悪くない。

ああまただ、と思った。この所在のなさ、一致しない感覚。

三箇所も席を替えながら、じぶんの実感が今ここから薄らいでいることに気がついた。

気がつくのはいつもこれが始まってからだ。遠のいていく肉体の感覚。クリアな夢の中にいるような目の前の情景。一体全体、わたしはまたミルフィーユのどこかを移動しているのか、今回はわたしの方が変わっている最中なのかその区別さえつかない。

 


ともかく妙な気持ち悪さが続いていく。暑さにやられたせいとも考えたが体は至って健康で、気持ち悪いといっても内臓が原因でないことは確かだし、女性ホルモンの周期的な影響でもない。

段階を追ってじぶんの行動を振り返っても、特筆して変わったことも起きていない。何が起因してまたこうなってしまったのか、その原因をぐるぐると考えると余計に気持ちの悪さが増すような気がして、あえて世俗に引っ張り戻されるような話題を探しにSNSを順に見て回る。しかしこれといった効果なし。

 


無自覚にわたしはじぶんの肉体から離れようとしていることが昔からままあるし、そこに追い重なるようにして、現実の輪郭が曖昧になり今ここがどこなのか、どの世界線にいるのかがわからなくなる。もちろん地名や場所や時間は真っ当に現実の一部として機能し、動き続けている。何だか書くと大層になってしまうが、この現象そのものはわたしにとっては当たり前すぎて、現象そのものが大変なことだと思ったことはないのだ。

でも客観的に考えると、冷静にじぶんの頭がやはりおかしくなってしまったのだろうかと心配になる。心療内科?それとも脳神経科?精神科?

「ふと気づくとわたしがわたしから遠くなり、この現実はどこの世界線かわからなくなることがあるのですがどうしたらいいですか?」そんな質問をするじぶんを想像して馬鹿馬鹿しくなった。まともに取り合おうとする医者に同情するくらいだ。でもそんな心配を一回挟めること自体がまだ理性としてマシなんだとしておきたい。

かつて中学時代じぶんの意識が遠のく現象を精神科医に診てもらったところ「離人症」という診断をつけられた。原因は強いストレスによる現実逃避を脳が起こす故らしい。しかし、今になってみると確かにその当時は強いストレスにさらされていたが、今はそんなストレスもなく(というか年々環境因子によるストレスは軽減しているとおもう)あえてそんな脳のバグを今起こすメリットはないだろう。

 


そんなことを思いながらわたしはぬぼっと冴えない頭のまま適当なバスに乗り近所の駅までたどり着いた。このまま家に帰ったところでしょうもないことに変わりはなく、ひとまずゆっくりと腰を据えて休めそうなカフェを探し一息つくことにした。幸いなことに仕事は大方終わらせていたので急を要すこともない。取り留めもなく手帳にここまでの状況を書き殴った後、今のじぶんの所在のなさ、実感のなさを埋めるためにこうしてまたキーボードを叩いて何とか気を取り直そう?と真っ昼間から足掻いている。

 


何のオチもない。何の変哲もない。でも不可思議な感覚だけがじぶんをブヨブヨと包み、逃してくれないのだ。それとも逃したくないのはわたし自身によるものなのだろうか。寝たらこの気持ち悪さは終わるのだろうか。この感覚に進展や終わりがあるんだろうか。

 

追記


カフェの座った席の隣に大きな時計があった。ぼんぼんと揺れる時間を眺める。

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特に何かが起こることもない。物語だったらこの時計が鍵になりそうなのにな、なんて思いながらわたしは頭を整理するために意味もなく「しまむら」に行き服を物色しながら気持ちを落ち着けようと試みた。

そうしてまたなんとも形容し難い一日が終わったのだ。