膨らむひとりごと

日々の散文

ミルフィーユを行き来するのはいつ

 

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世界はミルフィーユ状にできている気がするとある時からぼんやりと思い始めた(ある時が一体いつのことだかは思い出せないけどかなり子供の頃)。

以前はビヨーンと層のように一定間隔で重なりその層を単純に往来するのでないかと感じていたが、最近は繭の様な系が薄膜になり、そして幾重にも重なっているんじゃないかと細部を想うようになった。そこに果てはなく縦横に広がり、目を凝らせば至るところに無数の交錯点がある。そんな透明な点と線を繋いだメビウスの輪の中を日夜動き続けているのではないか、と。しかし私たちは基本的にそんな膜も交錯点も眼を使って見ることはできない。どこにあるかさえ物質としてはよく掴めない(というか多くの人間にとっては意識にすら上がってこないレベルで生活しているんじゃなかろうか?)

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わたしの主観でただ一つ言えるとするなら、”移動した”ことはよくわかる。移動という言葉だと地点Aから地点Bに動いたという様な認識になりそうだが、実はちょっとニュアンスが違う。当たり前の景色、当たり前の物や人や場所なのに「違う」とわたしの脳は認識している。例えるならAとA'。

一見は全く同じなのに、同じではないと感じる"何か"がそこには起きている。それは、生活における流動的な変化ではなく、非常に似ていても全く違う何かになったという意味だ。分かりづらいので便宜上「移動した」と書くことにしているけれど。

ただそれはどんな根拠を持ってしても証明はできないのだろう。今のところ。

でも確実に、ふと気がつくと全く同じに見えた違うところに移動「した」んだと気が付く。

これは至って真剣な話で、観測や認知の問題でもあるかな、と。

 

肝心というか現状の問題の要としては「移動した」時にしかそれが気づけないということだ。「している」または「する前」をわたし自身が認識することはまだできない。気づくときはいつも「した後」なのだ。

問題を仮定したときに以下の3つにまずは大凡は絞られるので、簡単にまとめてみる。

・移動「した」と感じるタイミングはいつなのか

・移動「した」と感じることの前の事象に共通点があるのか

・移動「した」と感じる場所や時間に共通点はあるのか

 

・移動「した」と感じるタイミングはいつなのか

普通に日常生活を送っているとき。道を歩いていたり、家にいたり、特別なことは何もしていない。ごくごく日常的な動きの最中にふと「あ、移動した」と気づく。

 

・移動「した」と感じることの前の事象に共通点があるのか

特別変化の大きい行動や心情が揺さぶられるようなことがあるわけでもない。強いて言えば、なんだか楽しかったなあ〜と思った出来事の後や気分が良いときに移動することが多い気がする。ただ反対に特段心も揺さぶられずPCに向かって仕事をし終わった後に突如移動していたこともあるのでなんとも一概には言えないのだ。

 

・移動「した」と感じる場所や時間に共通点はあるのか

一種の基準として、生活圏内は自分の認識の違いに敏感になるのではないかとおもう。真新しい土地に行って感じる時もあるが、それは少なからず新しい場所や物、人に対しての新鮮な驚きや感動も含まれるので純粋に「移動した」とも言い切れない。その点、日々の生活で家に帰ってきて「あ、全く同じ違う家に移動した」なんてことは何度となくあるし、馴染みのスーパーからの帰り道に「移動した」を感じる時は比較を実感しやすい。

 

仮定がまだまだ全然初歩段階すぎて何もまとまったことは言えないけれど、この論に自分で反論するのならこの現実を見ている「わたし」自身がいつでも一義的な、同質の存在だとは定義できない。わたし自身が定点でない以上「移動した」を感じるわたしそのものも変化の最中で一体どう何を「同じ」だと言えるのか。何を持って「移動」で「違う」のか。

更に時間が一定方向に流れているわけではなく、同時多発だったり伸び縮みがあると思っている

 

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(この辺りの記事にも書いてる)のでそう単純に多重世界だ!いえーい!みたいにも思えない。ますますややこしくなってくるのだああ・・・。

 

ただわたし自身にとってはこの「移動した」「違う」という感覚そのものは非常に確かだと言いたい。(改めて確かだと言える根拠なんて0だけど)その上で、移動によってパラレルワールドに行ったわけでもなく、大きな変化が突如として訪れたとか、そういうドラマチックな展開の話ではないが小さな変化というものはいつも天体の小爆発と同じくして起きて流れているはずだ。それを私たちが認識するかしないかは別の話として。

 

今までのところ”数多のわたし”と”数多の世界”と“数多の時間”が往還できる関係にあるものだと思って生きてきた。緊密に張り巡らされたその見えない繭の糸の皮膜はミルフィーユ上に今ここにも、静かに音もなく存在している。それを個人的な了解でなく、証明することになんの意味があるのだろうとも思うが、わたしのぐにゃぐにゃな生命の原点みたいな形のない形を人間として確かめようとするとき、この感覚は切っても切れないもので、肉体的に死ぬまでのうちにある程度自分が体系化できたらいいなと思っている。

まあ、ここまで書いてなんだけど、頭と精神のおかしい人の妄言で片付ければそれで終わる話になる(笑)ただおかしいものをおかしいと判断する人がおかしくないかどうかは誰にも本来判断できないだろうと思うので、わたしはまだまだ頭と精神のおかしい人として本気でこの事象を自分で分析し続けたいのだ。

 

当事者研究は続く。