膨らむひとりごと

日々の散文

充実とはクソ

昨日の呼吸の話はアクセス反響が良かったです。なんだろう、意外と呼吸するのに関心があるのかなあ。今日は昨日の話に繋がる「充実」について。

 

いまわたしには充実も不充実もなくなった。

というか「呼吸」と「今 」で生きていると、充実しているとか、充実していない(あえて不充実と呼ぶ)とかが、本当に概念として消えてきている。というか、もはやそんなものはどうでも良すぎるのだ。

 

充実している、ってそもそも言葉としては良く使われるけどなんだろうかと考える。

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まあ、言ってることはわかる。生活、趣味、仕事、気持ちや内面などが充実している、と大体そんな使われ方だ。ちなみに、充実の対義語は「空虚」。虚しさ、空しさ。空っぽ、カラ。

 

 この現実社会で充実《している》とはつまり、何かを自分がしたり、されたり、なにかを持ったりすることで生きていることに満足している《状態》のことを指しているのだ。そして、その状態で得られるのは実際の行為や事物そのものではなくて、それらを通して得られる「生きている気分やエネルギーの満足感」なのだなと解釈している。

ということは充実とはつまるところ、何かしらで「生きている!!!いええええええい!!!」を感じたいだけなのだよね。

 

しかしここで指す「充実」には大きな落とし穴があるとわたしは観察している。

一つめに、この充実とは目の前の現実社会においてのみ。

二つめに、充実することそのものに囚われている。

三つめに、「充実」することそのものが持ち上げられているのは近代化された社会において。

 

komainu-orch.hatenablog.com

これも以前書いて似たようなことです。

 

 

一つめの目の前の現実社会においてのみに充実とは、今生きているこの現実世界にしか通用しない事柄なのではないか、ということ。つまり、この時代、この目の前の自分が生きていける社会の中においてのみ期待でき、獲得出来得る事柄で判断して「充実」という言葉を使っている。

なんか、くどい説明になってしまったけど、いくら億稼ごうが、好きな仕事をバリバリしようが、好きな人と相思相愛の結婚生活をしようがそれによる「充実」の判断はこの目の前の社会に則した枠内で「充実」か「そうでないか」を無意識に振り分けていないか?という話。本当の充実ってなに?地球のどんな場所でも同義の充実って何だろう。

 

二つめに、充実することそのものに囚われている。これは、「幸せ」や「自己実現」という言葉にも置き換えられる気がする。「充実することは良いこと」とそもそも疑いもせず、《充実する状態》が欲しくて何とかして得ようともがいている状態。せっかくゆっくり呼吸をして緩める時間や空間があっても、それを怖くて受け入れることが出来ない。なにかしていないではいられない。何もしないこと=無価値、無意味みたいな図式になっている。だからどれだけ個々に与えられた時間や空間の空白があっても、そこには新しい何かが産まれる余白がなく、ギチギチで生きている。そして次から次へと色んなものをじぶんの中に放り込むからぐちゃぐちゃ。それこそ空虚だと思う。二律背反。

 

三つめ、「充実」することそのものが持ち上げられているのは近代化された社会において。

人類学で少しずついろんな文化を知ると余計にそう思うし、一つ目の内容と重なる部分もあるが私たちが目指したりしている「充実」って、近代社会によってある種、意図的に作り上げられたものに過ぎないということ。

【三食食べ、健康的な生活を送り、やりがいのある仕事をして、好きな趣味を持って、心は穏やかに、自由恋愛で想いが通じたパートナー、家族、そして心を許せる友人と共に過ごし、出来る限り元気に長生きしましょう、生き甲斐が大切!】

 

みたいなの、本当にクソ喰らえなんよ。

こんなのが充実だと思って生きているから、みんな鬱になったり、不調になったり、生きるのがしんどくなるし、無駄に悩むのだ。さっさとこんな虚像は捨てましょう。

それはなぜか。そもそも何かによって満たされたり、満たされなかったりするのはその時の人間の勝手な意識と文化の取捨選択で、都合でしかないからだ。そしてそれは相対的でしかない。

とある民族は林の中で男女共にパンイチ、そして木や葉を使って家らしき簡易ほったて建て小屋を作り、転々と移動しながら集落で暮らしている。日中はたまに狩猟に行ったり、木の実の採集をする以外は基本ダラダラゴロゴロ寝てる。それが彼らにとっては当たり前だし、普通に生を全うすることなのだ。

つまり、近代社会が望む、わたしたちが知っている「充実」とは違うベクトルの「充実」を体感している。そもそも「充実」なんて言葉そのものもないかもしれない。

 

「充実」という言葉や状態に踊らされて「充実」を探して、求めて、つくろうとしていないだろうか。世の中はこういうヘンチクリンな事に疑問も抱いていないらしい。世間のニュースの見出しや、売れてる本の内容を見るとそれが顕著に表れている。

キラキラしている、イキイキしている、人気、やりがい、仕事、性格、見栄え、稼ぎ そういうことで充実を測っていないだろうか。

ちなみにわたしがいままでに出会ってきて本物の充実を持っているなと感じた人はすごく僅かであったし、良い意味ですごく地味。キラキラとか別に纏わせてないし、発信とか表現に執着もしてないし、本当にあえて何か言うことも全然しない。ただ、じぶんが生きることそのものをひたすら実直にやっている。そういう人が内包する世界を垣間見ると、世の中で言われている「充実」なんていうのは割れ窓の貼り紙のようなものなんだなと思うのだ。

息を吸って吐く、吸って、吐く、吐く、吸う、、今 今 いま

それに始まり、それに終わる。結局こんなこと書いてるけど、それすら意味がないと言えば無いのだ。宇宙の星に揺蕩うのなら息を吸って吐く、そしてわざわざ地球で生き物として生きることなのだなと思う。それ以外に逆に何があるのだろうか。飛びすぎたかな。でも全部そうやって繋がっている。