膨らむひとりごと

日々の散文

老いと諦め

 

私の祖父母(祖母×2 祖父1)は90歳近くなっても未だに健在だ。

もちろん年相応に体も心も日に日に少しづつ、ゆっくりと死に向かってはいる。それでもまだまだ自力で体は動くし、意識も記憶も言葉もハッキリしているのだからその年代から言えばかなり元気な方だといえるのではないだろうか。

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祖父母に対してわたしは大したことは出来てない。けれど日々のちょっとした手伝いや、困り事、何かしらのヘルプに対してはできる限り応えたいと思ってやっている。

 

その中で、この数年特に祖父母に思うことは

「自らを諦めないでほしい」ということだ。

もっというとじぶんのことを「こんなものだ」と見限るのはじぶんに対して失礼だし、「こんなものだ」なんて線引きはいつだってそれが本当かどうかなんてわからない、勝手に可能性を決めているだけのことだ。それが何歳だって誰だってそうなのだ。

 

正直老人の肉体・精神状態などわたしには体感することができないので実際のその苦労や悩みなど察することしかできない。その中で「諦めないでほしい」と思うのはわたしの勝手でしかない、というのも重々承知している。

 

でもわたしは無理強いのスポ根的な「諦めないで」を言っている訳では決してない。

 

そうではなく彼らがもっている

「本当はまだ生きていたい」「本当はこれができたら楽しいのに」「あそこに行けたらうれしいな」という望みそのものに対して自ら早々に諦めに入って欲しくないのだ。

本当にそう思う。

 

自分の意図や意思通りに体が動かない

今まで慣れていた様に物事が進まない

それに対して周囲に迷惑をかけてしまう

自分だけ周りから置いていかれる様な気がする

 

それでも、本当は本当はたくさんの小さな望みが生まれて消えていく。

 

そうした人たちの気持ちや虚しさと苛立ちを、どこまでもわたしは想像することしかできない。でも何れじぶんだって、誰だって遅かれ早かれ「そう」なっていくのだ。

 

善意で何かをするというより、一抹でも望みを持っているのならそれを聞きたい、引き出したい。

本当は、本当はどうしたいのか

本当に諦めなくてはならないことなのか

本当にじぶんが思っているほどダメなのか

 

歳を取ること自体、経験と共に諦めや妥協や辛酸を舐めてきているのだと。それはそうとして。

 

でも本当はこれやりたい、って思ってるじゃん!

本当はここ行きたいって感じてるじゃん!

これが出来たらいいなって悩んでるじゃん!

 

そういう気持ちを、色々な会話の端々や行動から受け取るとわたしはどうしても「仕方ないよね」とは言えないし、思えないし、言いたくないのである。「やってみようよ、できることから、一緒に手近なことからできることやろうよ。そんな思ってるほどダメじゃないかもしれないよ!」と誠に勝手ながら言いまくって提案している(笑)

 

 

なのでわたしが出来ること、わかること、手伝えること、提案できること思いつく限りしてみるのだ。それで多少煙たがられても、あしらわられてもなんのその、だ。こちらから真剣に問い続けて、理想の100%でなくたって、ほんの少し今よりも「これなら、なんかいいかも…?」と気持ちが明るくなったり、ほんの数ミリ実生活が心地好くなったり、困っていたことがスムーズになったり。大きなことではなく本当にちょっとした小石が退くことで突っかからずゆっくりマイペースにたのしく歩けるなら、その方が彼らの一瞬一瞬が生きやすくなるし、わたしもうれしい。結果みんなハッピーじゃないか、と思う。

 

 

本当に些細な事の積み重ね。

わたしは大谷翔平ほど稼いで孝行しているわけでもないし(笑)何か大きなものを返したり、出来ているわけではないけれど

 

ご飯を作ってみるとまだ美味しく感じたり、食べることも悪いことじゃないかもと思ってもらったり

 

スマホが分からないなら使い方を紙に書けば分かりやすくて生活がスムーズになったり

 

耳が悪くなればそのサポートの仕方を考えたら会話がしやすくなったり

 

本当にその程度でしかないけれど、その程度のことの小さなことの積み重ねが「なんだかもう少し大丈夫かもしれない」「まだ出来ることはあるかもしれない」とじぶんの可能性に制限をかけずに少しでも生きることによろこびやたのしさを感じることに繋がるんじゃないかとわたしは信じている。

 

先日は食欲がなくなった祖母にオムレツをつくったり、今日は耳がほぼ聞こえなくなってしまった祖父と祖母の意思疎通をするのに一緒にタブレットを見に行ったり、スマホの音声入力の設定をしてあげたら随分ほっとした様な、嬉しそうな顔をしていた。

別に劇的に何かが変化した訳ではないけれど「これならいいかも?やれるかもしれない」とそういった片鱗が感じられたことは確かなのだ。それが各々のじぶんの生きることを諦めない、日々を過ごすうちの何かになってもならなくてもまあ悪くないかもね、と思えたら御の字。

ダメでも諦めてもそれはその人の人生だけど、わたしはじぶんが思いつく出来ることはしたい、という自分勝手な気持ちそのものを善意の押し売りではなく、本当にその人が望むことの数パーセントでも叶える手伝いができたらうれしいなと思う。

そしてそれは年齢でもなんでもなく人類みな等しくそうなのだ。

 

宇宙は138億光年からしたら人間の老いもクソとカンケーないぞー!というのが定型文。