膨らむひとりごと

日々の散文

ほとんど言わないことと、いつも思うこと。

表立って言うことも、書くこともほとんどしないけど

人や何かと接する時にいろんなものを視ているじぶんがいます。

「みる」って直接的な物質や表に出ているだけではないろいろなものです。嘘くさい感じが出るのも嫌なので全体的にオブラートに包んで書いてみます。

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正直そうしようと意図的にしているわけではなく自動的にそういった感覚が働いている、の方が近い感じ。

 

ただそれが内容的に心地が良いことばかりではなかったりするので、じぶんの中に多くの場合は留めて終わりにしています。

 

内容はそれぞれですが、結論として相手がわたしに伝えるはずではない、言っていない、見せていない=要は無意識に隠しているものをこちらが勝手に受け取っていることになるので、それをじぶんの方から相手に確証を取りに行ったり、チラつかせる様な行為は害悪だなと思うのでしません。(過去にいろんなことを正直に言ったら相手を驚かせてお互い嫌な思いをしたので)

それにそういう事実があるのだ、ということをふりかざして人に接する時には既に自分がマウントを取った状態でコントロールしようとしているなあと思うので、また二重に嫌な行為でしかないなと思うのです。

 

本当にごく稀に頼まれてのみ、その人や出来事を視たり何かを伝えたりすることがあります。そういう時はちゃんと正面切って包み隠さず伝えます。まあ稀でしかないし、別にわたしは占い師ではないけど精度はとてもいいと自負しています。

ただそれを表立って言ったり、生業にしちゃうといろんなめんどくさいことや雑音が増えるのでしません。そして世の中にいる本当に視てる人は「占い」という肩書きを持たない人です。(まああんまり書くと顰蹙買うね、、笑)

 

ただじぶんが私生活上において、いろんな意味で感じたりみたりしたものを消化する時に、もしそこにじぶんのエゴからの保身や損得勘定、自他を尊ばない選択から事を終わらせようとしているのだとしたら、隠さないで伝えるというのも大切なことだなあと最近とても思いました。

それは特殊に何かを感じ取っているかどうか、ということよりも緻密にじぶんの、相手や出来事の違和感にも気づいていることをないことにしない、ということです。結果的に波風が立つ様なことだったとしてもそうした小さな、微細なズレや不一致感、不快感に気がつくことは日常の意識そのものをどれだけ自分自身が丁寧に扱っているかだと強く実感します。

 

この社会だと事なかれ主義になりがち、というか多少我慢しても、多少あれ?と思ってもそんなこといちいち気にしたり、突っかかっていたら生活するのが大変です。それにはっきり言って世の中の仕組み的に損するのだと思います。だから、みんな無意識にそうした部分を亡くして鈍くして生きていくのでしょうか。逆にわたしはそういう社会的なものに則せなかったので子供の頃から本当に大変でした。今でも大変ですけど、まだ昔よりかは自分がじぶんのままで過ごしやすくなれました。

でも、本来はもっとみんな生きて行く中での自身の感覚(精神も、身体も)立たせて一つずつ気づくことができたら、少なくとももう少し色々なことが大切にされるのではないかなと思います。あまりにも一つ一つの行為や出来事が蔑ろにされたり、些末なことにされ過ぎているなと。

 

蛇足

 

何度も書いているし、常々思っているけれど

生きていることの最大の豊かさは、今ここそのもので生きられるか、感じられるかだと思います。そしてその最たるものが呼吸だと。

それは頭で、思考として、経験として積み上げられるものではないという側面を持ちます。だから「なんでも最短・確実に、右へ倣え」の方法論的な生き方では多分限界がある部分です。なぜなら己に問い続けなければならないことだから。

 

じぶんだけの今ここでの瞬間はじぶんの存在する、相対する世界にも、他生物にも同じだけ存在します。それぞれに「今ここ」という瞬間がありながら、同時に関連しているのだということが身をもって体感できるときっともっといろんなことにやさしく、強くなれるのかなと。わたしもまだまだその修行の最中ではあるけれど、いろんなことに正直に生きていると、いろんなものが視えるのだと思います。

なのでもっと視たり、聴いたり、感じたり、考えたりできるようになれたらいいな、と。

地球に生きててよかったと思える日々を過ごしたいなと誇張表現でもなんでもなく、小さな部屋の中から今日も思うのでした。