膨らむひとりごと

日々の散文

Memories of Finland

2年前の今日からフィンランドに行った。

 

目をつぶるとじぶんの四肢から細胞がのびて繋がっていく

 

聴覚でもあり、聴覚ではない聴こえる音をたくさん拾う

 

寒さで末端の感覚がないはずなのに
瑞々しくなるじぶんのからだという枠の感覚

 

目で見えているあらゆるものが
目で見えているものではないのだとなぜだかわかる

 

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マイナス30℃の極寒の雪の世界。

 

そこにいるのは人よりも動植物や風や水や雪

 

ことばのない彼らの持つ意識の有用さはことば以上だ

 

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人気のない道をひたすら通る

 

澄んだ世界に遅れてのぼる朝日

 

しんしんとした暗闇の森にただ佇む

 

 

そうすると、ほんとうにたくさんたくさん
いろんな存在がこちらに意識を向けてくれているのだ。

 

森を通る時、湖のほとり、木々や生き物たちに問いかける

 

フィンランドの彼らはなかなか厳粛で気位が高い気がする

 

暖かい国に比べてこちらに微笑みかけようとする態度は少ない

 

日本でも、家の近所でおなじことを小さい頃からやってるけど全然ちがうんだな〜っておもった。

 

でもそのひとりひとりに(あくまでわかりやすく擬人化すると)あいさつをするのだ

淡々とね。

 

そっちはどうですか?

 わたしははじめてきたのでお邪魔しますね。

 

と意識を向ける

 

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でも彼らは積極的には答えない
そんな生易しい迎合の仕方はしない

 

けれど目をつぶったり、しばらくそこで佇んでひっそりと彼らに同化する

 

正確にいうと異物であるわたしを彼らの純度にどれだけ合わせられるかなのだ。

 

 

そこでぱちり、ぱちりとなにかが合うと
わたしと彼らは少しずつ通じることができるの

 

 

なにもことばを交わすわけでもなく


分かりやすく真言めいた事も、神がかったお告げをされるわけでもない。

 

大切なのは淡々と彼らといることで、心地好く伸びていくじぶんの感覚細胞みたいなものをぷちぷちと増やして瑞々しくなっていくことだし

 

彼らの生きてきた、生きている背景を想像し続けることだとおもう。

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そしてオーロラをみて感じた

地球には、星には
こんなに大きくて、豊かで、恐ろしくて、美しくて、儚い、どこまでも呑み込むような、でも淡く消えていく存在がいるんだなあって

 

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何にそんなに囚われるんだろう

 

じぶんという肉体や意識さえもとても僅かなものなのに

 

そこについて回る生活やあらゆる思惑も
とてもとてもどうでもいいことだなあって

 

そこに時間や精神や肉体を使うのほんとただただもったいないって

 

社会生活を卑下しているわけではなくて、すんごく直感的に。

 

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でも実際の文化面においても様々な人種や考えや思想のひとと話したり出会うことでいかに日本の社会が固定観念で成り立っているのかも痛感する。

 

日本の文化ではみ出しもののわたしでも
別に地球という枠組みでいろんな土地でいろんな人といると「ただのおもしろい日本人の女」でみんな受け入れてくれるのね。

 

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地球の端から端まで飛んで回って
あらゆる場所や空気や自然や生き物に出会って
、じぶんという生き物をたのしんで味わっていけるのがそれが本当にいちばんだなって。

 

そしてそれを表したいなって。

 

だから地球たのしんで生ききるなんだよね
それしかないな、ってぴぴぴっておもった。

 

20代でいろんな土地に行って体験できることは人生にとってとても大きい

 

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フィンランドに行けて良かった
恩恵の土地。

 

また行きたい。

絶対行く。