膨らむひとりごと

日々の散文

〜していっている

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あったものが、なくなっていく過程

 

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「少しずつなくなっていっている」という連続した状態を体感することが苦手

 

苦手、というか嫌なこと。

 

じんわりじんわり「少しずつなくなっていっている」

なくなっている、は無くなっているであり、亡くなっているでもある。

"失っている"ではなく"変化している"のニュアンスに近い。

 

失うは完全に消え去り、大元から0になる事を表している気がするのだが

"無くなっている"と、"亡くなっている"は形が変わって可視化されなくなったり、存在するものが変化することだとおもう。

 

そして「なくなっていっている」はそれまで"有る"とおもっていたものが少しずつ変化して

見えていたものが見えなくなったり、見えなかったものが見えたり

こうだ、と思っていたものがこうではなくなったり

そういう瞬間の連続性が帯のように無数に流れ続けている感じがする。

 

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その帯を分断して捉えられればきっともう少し楽だったり、ある意味合理的に物事を切り取ることも出来るのだろうけど、そういう機能はわたしに搭載されていないようだ。

 

「なくなっていっている」は常に今を軸とした進行形だ。

つまり同時に「うまれていっている」も存在する。

 

りんごがなくなっていっている

みんなのお腹が満たされていっている

 

は同時に起こりうるし、これはどんな事にも置き換えられる。

 

なので完全な0になる訳がないのだ、と頭で納得していても

「なくなっていっている」の瞬間に感覚のフレームが合うと、まるで一瞬がとても永く感じて、ぎゅるぎゅると目前にある「なにか」が少しずつ吸い込まれて褪せた様に、遠くになる様に、時にはまるで「最初からそこには何もない」と言わんばかりに平然とした顔をしているようにさえ見えて、なぜだか置いてきぼりにされた気持ちになるのだった。

 

この「なくなっていっている」をオンタイムで感じ続けていることは一体どういうことだろうか

 

無意識のうちにやっているのでじぶんでもいまいち説明しづらい部分でもあるが、最近この「なくなっていっている」を顕著に感じる出来事が多い。

でも、逆にいえば「うまれていっている」を掴むこともとても得意だとおもう。

その向きが違うだけで、発露するものに向ける感覚細胞はおなじなのだ。

 

「うまれていっている」ことを体感すること程瑞々しい感覚はないのではないだろうか。

音楽をつくるとき、ピアノを弾く時、もう当たり前になっている。舞台稽古や公演の瞬間も、この「うまれていっている」を強く強く感じる。

うまれているだから当然なのだが、自らが生きているということを何より強く感じられる貴重な瞬間だ。

それは一日がほんの数時間に感じられるほど短く、あっという間ということばがピッタリ。

 

「うまれていっている」の溢れる力は時間をも凌駕する。本当に吸い込む空気がきらきらしている。 

 

「なくなっていっている」も「うまれていっている」も

〜っていっている(ing)を体感出来るということは「いま」に基があるからだ。そこからズレるとどちらも感じられなくなるだろう。

 

確かにその瞬間によっては嫌〜な気持ちにはなることもあるが、でもわたしはこの「いま」から派生して、変化している最中の物事を感じ取れるスイッチがあって良かったなと思うのだった。

 

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きょうもなんのまとまりもなかった…