膨らむひとりごと

日々の散文

本当のお金持ちは自分自身で「俺は金持ちだ」と言わないし

本当の美人は自分自身で「私は美人だ」と見せないし

本当の自由な人は自分自身で「私は自由人だ」とは言わないし

本当に賢い人は自分自身で自分が賢いことを披露することはないし

本当に利他的な人は「人のために」をわざわざ枕詞につけない

 

ソクラテスの有名な「無知の知」というのもありますね。もう紀元前から言い古されてることとも言える(笑)

 

 わざわざそういうことを言ったり、見せたりしている人を見るとげんなりする。本当に「そう」ならわざわざ言う必要も、見せる必要もないのだから。世の中には虚像が溢れかえっているし、それを見抜けない人も多すぎるし、さらには虚像に憧れている人も多くてなんだかファンシー地獄絵図だ。

サッパリと誰にも気付かれないところで、気付かれない様に自分なりにやってる人を風の噂で知るとグッとくる。現代社会では自己アピールは正当化され、それが「良きこと」という風潮ばかりがクローズアップされるが、至るところで肥大化した自己ばかりが表に立ち異様な空気を感じるのはわたしだけだろうか。エゴや意地の見えない自己主張とはなんだろうかと考える。

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 最近中居くんが紺綬褒章飾版を受章したというニュースを見た。特段彼について詳しくはないが人並みには知っているあの「中居くん」。わざわざ誰に言うでもなく私財を寄付したりしているのはとても素敵だなあと思った。彼ほどの有名人になればお金や名声など桁違いだろうからそんなものをひけらかしたところで意味がないのだろうけど、普段見せている芸能人のキャラクターとは違う部分で、一個人としてこうした行動が出来るのは素直に尊敬する。

 

 自分から見せないと仕事が来ない、人気になれない、知ってもらえない、認めてもらえない、とか確かにそれも一理あるのだろうなと思うし、それが合っていて好きな人はその道を突き進めばいい。でもわたしはその考えそのものにはじめからどうにも馴染めない。ずっと違和感がある。なんか変じゃないか。何が変かをまだうまく言語化できないのでなんともだが…。

素直な自己主張。誰に認められるでも、褒められるでもなく、他の何かの意思に関係なく、じぶんが良いと思ったからそれをじぶんのために出来ることが私にとっては一番良い。このブログもそう。別にこれを誰かが読もうが読むまいが関係ない。それに、どんな意見を持たれたところでそれはそれで好きにして欲しい。

いろんな疑問が尽きるまで書きたいように書き続けよう、じぶんのために。