膨らむひとりごと

日々の散文

ぴょかぴー

ぴょかぴーぱんぽろぱしもーど

ぶれとぱれかぷーんちぽれる

ぱーりぱぽんてぴぷるぽーだ

 

cresmendo bassouti da 

mendaltino fo alidanve

pocipovikokichi

 

シュペポロンパバンヒ

ガンドルデ サンバビー

キャラテノキャラテノ

ササリサンソーネピー

 

 

 

 

 

なにを読むでしょうか

なんと読むでしょうか

なにか意味は読み取れたでしょうか

 

 

 

正解は

 

 

なーーーーーーーーーーんの意味もないんだ〜〜〜ぜ〜〜〜︎︎︎︎✌︎

ぜーんぶデタラメで思いつく音を文字化しただけなので言語の意味も文脈もない。

超どうでもいい超なんでもない

ただの羅列、流れていく文字たち。

 

こういう擬音がしょっちゅう頭の中に流れている(特に朝起きるとき)ので擬音を思いつくのが特技かもしれない。

 

ただ口に出すとなんか気持ち良いふしぎ!いつまででもポロポロでてくる

 

 

言葉の意味や文脈が死んでも音としてすきなことばはあるんだよなあ、それが連なったり切れたりするとおもしろいな。言葉でことばを論じることがバカらしくなるので想念は擬音になるのかなとおもいました。でも意味はなにひとつないのがいいね。ただ流れて消える。

 

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オチはないです。おわり。

 

老いと諦め

 

私の祖父母(祖母×2 祖父1)は90歳近くなっても未だに健在だ。

もちろん年相応に体も心も日に日に少しづつ、ゆっくりと死に向かってはいる。それでもまだまだ自力で体は動くし、意識も記憶も言葉もハッキリしているのだからその年代から言えばかなり元気な方だといえるのではないだろうか。

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祖父母に対してわたしは大したことは出来てない。けれど日々のちょっとした手伝いや、困り事、何かしらのヘルプに対してはできる限り応えたいと思ってやっている。

 

その中で、この数年特に祖父母に思うことは

「自らを諦めないでほしい」ということだ。

もっというとじぶんのことを「こんなものだ」と見限るのはじぶんに対して失礼だし、「こんなものだ」なんて線引きはいつだってそれが本当かどうかなんてわからない、勝手に可能性を決めているだけのことだ。それが何歳だって誰だってそうなのだ。

 

正直老人の肉体・精神状態などわたしには体感することができないので実際のその苦労や悩みなど察することしかできない。その中で「諦めないでほしい」と思うのはわたしの勝手でしかない、というのも重々承知している。

 

でもわたしは無理強いのスポ根的な「諦めないで」を言っている訳では決してない。

 

そうではなく彼らがもっている

「本当はまだ生きていたい」「本当はこれができたら楽しいのに」「あそこに行けたらうれしいな」という望みそのものに対して自ら早々に諦めに入って欲しくないのだ。

本当にそう思う。

 

自分の意図や意思通りに体が動かない

今まで慣れていた様に物事が進まない

それに対して周囲に迷惑をかけてしまう

自分だけ周りから置いていかれる様な気がする

 

それでも、本当は本当はたくさんの小さな望みが生まれて消えていく。

 

そうした人たちの気持ちや虚しさと苛立ちを、どこまでもわたしは想像することしかできない。でも何れじぶんだって、誰だって遅かれ早かれ「そう」なっていくのだ。

 

善意で何かをするというより、一抹でも望みを持っているのならそれを聞きたい、引き出したい。

本当は、本当はどうしたいのか

本当に諦めなくてはならないことなのか

本当にじぶんが思っているほどダメなのか

 

歳を取ること自体、経験と共に諦めや妥協や辛酸を舐めてきているのだと。それはそうとして。

 

でも本当はこれやりたい、って思ってるじゃん!

本当はここ行きたいって感じてるじゃん!

これが出来たらいいなって悩んでるじゃん!

 

そういう気持ちを、色々な会話の端々や行動から受け取るとわたしはどうしても「仕方ないよね」とは言えないし、思えないし、言いたくないのである。「やってみようよ、できることから、一緒に手近なことからできることやろうよ。そんな思ってるほどダメじゃないかもしれないよ!」と誠に勝手ながら言いまくって提案している(笑)

 

 

なのでわたしが出来ること、わかること、手伝えること、提案できること思いつく限りしてみるのだ。それで多少煙たがられても、あしらわられてもなんのその、だ。こちらから真剣に問い続けて、理想の100%でなくたって、ほんの少し今よりも「これなら、なんかいいかも…?」と気持ちが明るくなったり、ほんの数ミリ実生活が心地好くなったり、困っていたことがスムーズになったり。大きなことではなく本当にちょっとした小石が退くことで突っかからずゆっくりマイペースにたのしく歩けるなら、その方が彼らの一瞬一瞬が生きやすくなるし、わたしもうれしい。結果みんなハッピーじゃないか、と思う。

 

 

本当に些細な事の積み重ね。

わたしは大谷翔平ほど稼いで孝行しているわけでもないし(笑)何か大きなものを返したり、出来ているわけではないけれど

 

ご飯を作ってみるとまだ美味しく感じたり、食べることも悪いことじゃないかもと思ってもらったり

 

スマホが分からないなら使い方を紙に書けば分かりやすくて生活がスムーズになったり

 

耳が悪くなればそのサポートの仕方を考えたら会話がしやすくなったり

 

本当にその程度でしかないけれど、その程度のことの小さなことの積み重ねが「なんだかもう少し大丈夫かもしれない」「まだ出来ることはあるかもしれない」とじぶんの可能性に制限をかけずに少しでも生きることによろこびやたのしさを感じることに繋がるんじゃないかとわたしは信じている。

 

先日は食欲がなくなった祖母にオムレツをつくったり、今日は耳がほぼ聞こえなくなってしまった祖父と祖母の意思疎通をするのに一緒にタブレットを見に行ったり、スマホの音声入力の設定をしてあげたら随分ほっとした様な、嬉しそうな顔をしていた。

別に劇的に何かが変化した訳ではないけれど「これならいいかも?やれるかもしれない」とそういった片鱗が感じられたことは確かなのだ。それが各々のじぶんの生きることを諦めない、日々を過ごすうちの何かになってもならなくてもまあ悪くないかもね、と思えたら御の字。

ダメでも諦めてもそれはその人の人生だけど、わたしはじぶんが思いつく出来ることはしたい、という自分勝手な気持ちそのものを善意の押し売りではなく、本当にその人が望むことの数パーセントでも叶える手伝いができたらうれしいなと思う。

そしてそれは年齢でもなんでもなく人類みな等しくそうなのだ。

 

宇宙は138億光年からしたら人間の老いもクソとカンケーないぞー!というのが定型文。

being

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あるものは、なるものではない

あるものは、在るものとして。

 

ことばにはならない、なんだかわからない

けど確かにある「なにか」 でもこの「なにか」は神や霊的な存在では断じてない。

でもその「なにか」そのものを客体にするのではなくわたしがその「なにか」、そのものである状態。

 

そういう状態として常に流れていたい。

 

文化人類学の中で人間のことをあえて、humanbeing と英語で表すことが度々ある。

それは人間と非人間の存在を区別する必要があったりする場合などに。

でも、わたしはそのことばを捉え直す度に、「ある」に焦点が定まっている様な気がするのだ。

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その上で、そんなことも含めてわたしたちの存在そのものとはなんだろうとずっと

概念やことばでは決して表すことのできない

「なんだかわからないなにか」をずっとずっとこどものころから追いかけ続けている気がするのだが、最近またほろりほろりとその謎が明るくなってきた。

 

生か死だけには分別できないその微妙な間にあるもの

その内側から外側にかけて流れていくもの

その空間をつくるもの あるもの

流れて変化し続けているもの

時間と言われる時間ではないそこにあり続けるもの

 

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今日もいつもの散歩道で、お気に入りの場所にふらっと立ち止まっていたらその「なんだかよくわからないもの」が急にぐっと開けて、こちらの存在に気づいて微笑んでくれた。その瞬間にほんとうに泣いてしまった。わたしもなんだかよくわからないものに一瞬同化して、そしてまたわたしで在る方に戻ったようだった。

 

 

ミクロな呼吸 マクロな呼吸

いま いま いま いま

 

さんぽしていろんな音が聴こえると

音って究極の時間だよなあ
本当に音を聴くっていうのはいまこの瞬間にいようという意思だなとこの前思った。

 

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「今この瞬間 今ここ」

はもう使い古されすぎていることばに感じる。どうやったらそれに変わるもっとピッタリくることばや説明ができるかなあと考える。でも今のところ良いことばがまだでてこない。

 

息を吸って吐く それを毎瞬丁寧にする。

意識しても、いなくてもわたしたちは、生き物はみんな息をする。

息を吸って吐くことは当たり前になっているけれど、宇宙から地球に与えられた最強最高の力じゃないかなとおもう。

なぜなら、その中には命も時間も自由も幸せもなにもかもつまってると感じるから。

でも地球では何の意識もせずとも息を吸って吐いている、改めて本当にすごいことなのに。人間だけじゃなくあらゆる生き物が息を吸って吐いている。それをひとつずつ観察して受け取っていくととてつもないエネルギーがあるなあと何度でもそれぞれの存在自体に言い難い感動が生まれる。

 

海に行くと海も呼吸をしているし

その辺の住宅街にある草も、道を歩いているアリもああ呼吸と共にあるなあ

わたしたちは呼吸をお互いに生成しあっているなあと。

別に「生物多様性」などという改まった言葉を用いなくても十二分に実感することができる。

 

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息を吸って吐くことは今この瞬間に存在しつづける

常に、呼吸には今しかない。

過去も未来もない。思考も概念もない。

余計な重たさを持たずに、自我の無駄な精神の介入をせずに、頭のおしゃべりをやめて今に全力でいられるだろうか。

今この瞬間、息を吸って吐くことでじぶんの命のエネルギーをいつだって感じていられるだろうか。

 

それが今のエネルギーの密度になり、その空間や時間や「私」ひいては「私たち」という存在をも飽和して伸縮自在に流れ広がっていくんじゃないか。

 

わたしにとって「時間」は最大かつ永遠の疑問であり、地球にいることを知らしめ続けるものなのでもう、ずっとずっとずっとずーっと色々な角度から時間を探り続けている。それでもじぶんの中でしっくりくるものには中々たどり着けていない。 でも私たちが認識する時間は、本当はおもっている時間とは別物なんじゃないだろうかと最近つくづく思うことが増えた。

 

けれど時間を概念やそもそもの大きな宇宙や地球の星の流れの中のイメージとしてではなく(それはそれとして好きでおもしろい)

そこに連続して影響しあいながら、この個体としてのわたしの中に起こる時間のミクロスケールはいまこの瞬間息を吸って吐くこととすると。

もっといえば吸う中でも吐く中でも更に細かく様々な感覚が起こることも全て含めてその場所、その自分、あらゆる内外界の対象物が関連し合ってそこに存在し続け、連続しているように思えていることがクリアに感じられるといまこの瞬間そのものの明晰さや深度がものすごく体感として豊かに拡がるようになる。

 

いつもそうありたいけど、社会に取り込まれかけると、そうあれない時もある。でも、とにかく息を吸って吐くこと以上に大切なことは本当になんにもないし、命も時間も自由もなにもかもつまってると絶対的にわたしはおもっている。

 

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息を吸って吐く

いきをすってはく

こう書くいまこの瞬間にも呼吸を当たり前にし続けて、空間はわたしをそこに連続させる。

わたしのミクロな時間の流れと星や宇宙のマクロな流れは違うように見えてその質は同じじゃないかな、なんて思う。

 

今この瞬間、で居続けると

体の中に無敵で無限だなあと何かが流れて満ちていく。

 

#過去投稿に時間と呼吸のことはたくさん書いているので見てください。

波立つ中にいる

今日こんなことを思いました。

 

 

きっと強くなりたいとも、鈍くなりたいとも多くの人は願っていないだろう。

でも特別にこれ、といった意思を持たなくても人間はあらゆる場面で少しずつ環境や他者から影響を受けて自らも気づかないうちに変わっていく。でもその変わっていく瞬間そのものを逃している様な気がする。変わら「される」と、変わって「しまう」の中間にある、自分と世界の間のぬかるみの間をズルズルと日々の「何か」に忙殺されていくのだ。それが強さや鈍さという言葉で加工されてあたかも真っ当に生きているように錯覚していく。


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感覚が波立つことに耐えられないのは、波の上にしかいないからだ。

波のもっともっと深い部分に、奥へにいくと、そこはとても静か。

静かな中にとても小さな音で何かがきこえる。何かがみえる。

それをよーく よーく、大切に 大切に、ひとつ ひとつ拾っていくんだよ。

本当はいつだってじぶんがそこにいることを思い出すんだよ。

 

ってわたしの中のなぞの宇宙人が言ってました。

おわり。

 

 

ほとんど言わないことと、いつも思うこと。

表立って言うことも、書くこともほとんどしないけど

人や何かと接する時にいろんなものを視ているじぶんがいます。

「みる」って直接的な物質や表に出ているだけではないろいろなものです。嘘くさい感じが出るのも嫌なので全体的にオブラートに包んで書いてみます。

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正直そうしようと意図的にしているわけではなく自動的にそういった感覚が働いている、の方が近い感じ。

 

ただそれが内容的に心地が良いことばかりではなかったりするので、じぶんの中に多くの場合は留めて終わりにしています。

 

内容はそれぞれですが、結論として相手がわたしに伝えるはずではない、言っていない、見せていない=要は無意識に隠しているものをこちらが勝手に受け取っていることになるので、それをじぶんの方から相手に確証を取りに行ったり、チラつかせる様な行為は害悪だなと思うのでしません。(過去にいろんなことを正直に言ったら相手を驚かせてお互い嫌な思いをしたので)

それにそういう事実があるのだ、ということをふりかざして人に接する時には既に自分がマウントを取った状態でコントロールしようとしているなあと思うので、また二重に嫌な行為でしかないなと思うのです。

 

本当にごく稀に頼まれてのみ、その人や出来事を視たり何かを伝えたりすることがあります。そういう時はちゃんと正面切って包み隠さず伝えます。まあ稀でしかないし、別にわたしは占い師ではないけど精度はとてもいいと自負しています。

ただそれを表立って言ったり、生業にしちゃうといろんなめんどくさいことや雑音が増えるのでしません。そして世の中にいる本当に視てる人は「占い」という肩書きを持たない人です。(まああんまり書くと顰蹙買うね、、笑)

 

ただじぶんが私生活上において、いろんな意味で感じたりみたりしたものを消化する時に、もしそこにじぶんのエゴからの保身や損得勘定、自他を尊ばない選択から事を終わらせようとしているのだとしたら、隠さないで伝えるというのも大切なことだなあと最近とても思いました。

それは特殊に何かを感じ取っているかどうか、ということよりも緻密にじぶんの、相手や出来事の違和感にも気づいていることをないことにしない、ということです。結果的に波風が立つ様なことだったとしてもそうした小さな、微細なズレや不一致感、不快感に気がつくことは日常の意識そのものをどれだけ自分自身が丁寧に扱っているかだと強く実感します。

 

この社会だと事なかれ主義になりがち、というか多少我慢しても、多少あれ?と思ってもそんなこといちいち気にしたり、突っかかっていたら生活するのが大変です。それにはっきり言って世の中の仕組み的に損するのだと思います。だから、みんな無意識にそうした部分を亡くして鈍くして生きていくのでしょうか。逆にわたしはそういう社会的なものに則せなかったので子供の頃から本当に大変でした。今でも大変ですけど、まだ昔よりかは自分がじぶんのままで過ごしやすくなれました。

でも、本来はもっとみんな生きて行く中での自身の感覚(精神も、身体も)立たせて一つずつ気づくことができたら、少なくとももう少し色々なことが大切にされるのではないかなと思います。あまりにも一つ一つの行為や出来事が蔑ろにされたり、些末なことにされ過ぎているなと。

 

蛇足

 

何度も書いているし、常々思っているけれど

生きていることの最大の豊かさは、今ここそのもので生きられるか、感じられるかだと思います。そしてその最たるものが呼吸だと。

それは頭で、思考として、経験として積み上げられるものではないという側面を持ちます。だから「なんでも最短・確実に、右へ倣え」の方法論的な生き方では多分限界がある部分です。なぜなら己に問い続けなければならないことだから。

 

じぶんだけの今ここでの瞬間はじぶんの存在する、相対する世界にも、他生物にも同じだけ存在します。それぞれに「今ここ」という瞬間がありながら、同時に関連しているのだということが身をもって体感できるときっともっといろんなことにやさしく、強くなれるのかなと。わたしもまだまだその修行の最中ではあるけれど、いろんなことに正直に生きていると、いろんなものが視えるのだと思います。

なのでもっと視たり、聴いたり、感じたり、考えたりできるようになれたらいいな、と。

地球に生きててよかったと思える日々を過ごしたいなと誇張表現でもなんでもなく、小さな部屋の中から今日も思うのでした。

 

 

1週間ハワイを旅した

旅はいつも発見があります。

特に、海外は普段の生活や文化と違う面をたくさん発見できるのもありとてもたのしい。

 

ということでコロナ禍になって以来のようやく久々の海外!!泣

2020年の春に1年間のカナダ行きが頓挫されて心が折れていた部分があったけど、やっぱ海外旅は最高だと思った次第。

 

しかも、行き先がハワイなこともあり海の女としてはすこぶるテンションがあがったのはいうまでもない。

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旅の発見は外側の世界に対してだけではなく、むしろじぶん自身について気づくことがたくさんある。

そしてそれは普段の生活圏内を飛び出すからこそわかることなのだ。

 

今回特にいちばん思ったのは

わたしはやっぱり『動じないな、堂々としてるな』だった。裏を返すと、危機感がない。

元々旅先で萎縮するということはないけど、今まで以上にそれを感じた。

 

家族旅なのでツアーでもないし、私は祖母の手を引きホテルの手続きや、街中の移動、交通、飛行機の乗り降りなどを淡々とこなせたじぶんを少し褒めてあげたい笑

英語も勉強をなんだかんだしてきた成果も出ていてフツーに喋れてうれしかった。もっと込み入った長い文章や会話をスっと分かって、話せるようになるべくがんばろうと気合いが入りました。

 

まあ意思疎通できるというのはかなり大きいけれど、そもそも今より英語もわからず、英語圏でない国でもなんだかんだフラフラして楽しく旅が出来ていたのもあったので、日本人によくある「言語がわからずにたじろぐ」はあまりじぶんには関係ないなあと思う。

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旅にはイレギュラーがつきもので、理不尽なことや、納得いかないこともよくある。

今までもたくさん失敗したり、間違えたり、変なこともあった。でも必ずなんとかなっているのだ!!

えー?とかイラッとすることもしっかりじぶんの意見を伝えたり、交渉したり、わからなければ質問したり、妥協案を提案したり。

そういうことを含めてわたしは旅をすることが好きだ。じぶんの生きている感覚や胆力をちょうど良く試して確認しているようにも思う。

 

そういう時のパーンっと漲って好奇心と行動力でうるおっている状態のじぶんがすごく好き。

 

いつも思ったようになることに慣れていたり、じぶんの安心できる生活圏内にいたり、

どこに行くにも何をするにも誰かに先導してもらったり。

それは安心で楽かもしれないし、思った通りに過ごせるかもしれないけれど、予定調和で決して想像の範疇を超えることはできないし、なによりおもしろくない。

そう、おもしろくない!!とおもってしまう。

わたしが何よりつまらないのは予定調和なのだ!!!

 

旅は人生の縮図だし、人生は旅をしつづけることで拡大して未知の世界にどんどんにいけるとおもっている。

そして日常生活でも当たり前にその意識でいると、たくさん発見があるからたのしい。

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今回で10箇所目になった🌎

 

インドネシア

韓国

フランス

オランダ

ロッコ

フィンランド

ベルギー

香港

ハワイ

バリ

 

まだまだ地球にはたくさんの国があるからもっともっとたくさん知らない場所に行っていろんな文化や、言語や、考えや感覚を体験したいね。

わたしの生きるモットー、地球たのしんで生ききるの醍醐味です。

 

ちなみに、今年は毎月旅に行きました。多い時には2回!!

来年ももっと旅したい!!

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ハワイの文化や現地のレポートは次回につづく!

 

 

フェーズ変わりましたね。

 

前回

何にも励まない

https://komainu-blog.hatenablog.com//entry/2023/10/29/225206

というのを書きました。

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それからも、何にも大きなことに励まない生活は続いています。

 

励まない、ということは様々なことのモチベーションが落ちているのか?(モチベーションが落ちるということすらもそもそもなんだろうとなるけどそれは一旦脇に置いておく)

とも思ったけど、別にそうではありませんでした。

生きる意欲が欠如しているのでも、無気力なわけでも全然ありません。

気づいたら、淡々と生きています。それに気持ちがフラットで居られる時間が増えたということでした。

 

フラットでいるというのも、感情の起伏がないというのではなくて、どっしりと落ち着いて生きている感覚が以前より一層強く持てている感じ。

特に何かや誰かを支えとしたり、目的や目標を決めることでじぶんの安定感や自信を築いているわけではありません。

 

むしろ以前よりそれらは更に少なくなりました。

誰かや何かが示してくれる希望や、世の前例に自らを委ねることは、ある意味とても生きやすいかもしれません。実行するのは難しいけど生きやすい。伝わるでしょうか?

そしてそれは良い悪いでは全くありません。

 

でもそこには常に、じぶんではない何かによって既につくられた概念や制限が生じてしまうし、逆にそれによって助けられたり、飛躍することができるのも事実です。

 

少し前だったらきっと、こんな「な〜んにもな〜い」じぶんの状態そのものに少し不安を覚えたと思います。

何もやりたいことはない

何も目指す形も姿もない

特別これといった何もない

何者でもないし、何も持っていないし、

これといった何も成していない

ないない尽くしです。

 

でもその「ない」という状態のじぶんが気にかかることはなくなってしまいました。

なぜなのかはまだわかりません。

 

そして「ない」と書いていますが、実の所ほんとうになにもないわけではないと思います。

 

今日はかぼちゃのスープが飲みたいな。

帰り道はこっちの道で帰ろう。

明日、おばあちゃんに会いにいこう。

 

とかその程度です。

でもその程度がほんとうに生きている状態の究みなのではないかとおもっています。

だから、それがその瞬間望むこととしてじぶんが選択して行動できれば、それ以上もそれ以下もないと感じます。

 

 

 

 

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これはきょうの帰り道に歩きながらそんなことを思ってふと、スマホに片手でメモしました。

 

上の絵は

目的や目標や、継続や、なりたい姿を持つ人がは日々そこに向かって変化していく動きです

 

下の絵は

なにもなくて毎日その時に変化していくわたしの動きです

 

よくじぶんを好きになるとか、自己成長や、自己実現のために

やりたいことを書き出しましょう、好きなことはなんですか?、どんな風になりたいですか?と必ずと言っていいほど聞かれます。

 

なんかもうそんなのどうでもよすぎてしまって。

別にそんなものあろうがなかろうが、なんだっていい。

 

ただ、ある時点で狙った範囲内の、想像の範囲内の形があり、そこに向かうことが目的化されてしまうと、生きている状態の変化が無碍にされていることに気づかず、「目的へのじぶんを生きること」になっていると思いました。

 

現代社会で好かれとされることはこっちです。それで上手くいっているとされる人がほとんどだと思うので、方法もたくさん提示され、皆そこを目指し、疑うこともなく倣えています。

だからちゃんとソツなく「その形の人間」として成れるのだと思います。

そしてそう倣えて、成っていればバイタリティがあり、うまくいって、しあわせで、成功して、幸せそうに生きている人なのだと。(?)

 

生きている状態そのものを生きることはすべて「いまこうである」という現在進行形の連続にしか過ぎないと強く感じます。

昨日思ったことを今日変えることは当たり前だし、

さっきしたことをいま変えたっていいし、

同じまま何年も過ぎたっていいのだなと。

 

結局人間というわたしが何を思って行おうと「不変」ということは有り得ないし、何かしらの「変化」にはなるのです。

それをどんな感覚や思考で意図して生きるかはその時に選べるけれど

「なにか」という大したものがあるかないかも、もはやその中の変化の内でしかないと思う日々です。

 

だから諦めでも、焦りでも、上手くも下手も、なりたい物になるもならないも、やりたいことをやるもやらないも

すべては生きている状態の内の変化の中のひとつです。ただ生きているだけです。

 

何も推敲していない文章なのでただ書き流していますが、生きている状態そのものを生きていることを究めることはいいゾ、ということでした。終わり。

 

#生活 #生きること #目標 #変化