前回
何にも励まない
https://komainu-blog.hatenablog.com//entry/2023/10/29/225206
というのを書きました。
それからも、何にも大きなことに励まない生活は続いています。
励まない、ということは様々なことのモチベーションが落ちているのか?(モチベーションが落ちるということすらもそもそもなんだろうとなるけどそれは一旦脇に置いておく)
とも思ったけど、別にそうではありませんでした。
生きる意欲が欠如しているのでも、無気力なわけでも全然ありません。
気づいたら、淡々と生きています。それに気持ちがフラットで居られる時間が増えたということでした。
フラットでいるというのも、感情の起伏がないというのではなくて、どっしりと落ち着いて生きている感覚が以前より一層強く持てている感じ。
特に何かや誰かを支えとしたり、目的や目標を決めることでじぶんの安定感や自信を築いているわけではありません。
むしろ以前よりそれらは更に少なくなりました。
誰かや何かが示してくれる希望や、世の前例に自らを委ねることは、ある意味とても生きやすいかもしれません。実行するのは難しいけど生きやすい。伝わるでしょうか?
そしてそれは良い悪いでは全くありません。
でもそこには常に、じぶんではない何かによって既につくられた概念や制限が生じてしまうし、逆にそれによって助けられたり、飛躍することができるのも事実です。
少し前だったらきっと、こんな「な〜んにもな〜い」じぶんの状態そのものに少し不安を覚えたと思います。
何もやりたいことはない
何も目指す形も姿もない
特別これといった何もない
何者でもないし、何も持っていないし、
これといった何も成していない
ないない尽くしです。
でもその「ない」という状態のじぶんが気にかかることはなくなってしまいました。
なぜなのかはまだわかりません。
そして「ない」と書いていますが、実の所ほんとうになにもないわけではないと思います。
今日はかぼちゃのスープが飲みたいな。
帰り道はこっちの道で帰ろう。
明日、おばあちゃんに会いにいこう。
とかその程度です。
でもその程度がほんとうに生きている状態の究みなのではないかとおもっています。
だから、それがその瞬間望むこととしてじぶんが選択して行動できれば、それ以上もそれ以下もないと感じます。
これはきょうの帰り道に歩きながらそんなことを思ってふと、スマホに片手でメモしました。
上の絵は
目的や目標や、継続や、なりたい姿を持つ人がは日々そこに向かって変化していく動きです
下の絵は
なにもなくて毎日その時に変化していくわたしの動きです
よくじぶんを好きになるとか、自己成長や、自己実現のために
やりたいことを書き出しましょう、好きなことはなんですか?、どんな風になりたいですか?と必ずと言っていいほど聞かれます。
なんかもうそんなのどうでもよすぎてしまって。
別にそんなものあろうがなかろうが、なんだっていい。
ただ、ある時点で狙った範囲内の、想像の範囲内の形があり、そこに向かうことが目的化されてしまうと、生きている状態の変化が無碍にされていることに気づかず、「目的へのじぶんを生きること」になっていると思いました。
現代社会で好かれとされることはこっちです。それで上手くいっているとされる人がほとんどだと思うので、方法もたくさん提示され、皆そこを目指し、疑うこともなく倣えています。
だからちゃんとソツなく「その形の人間」として成れるのだと思います。
そしてそう倣えて、成っていればバイタリティがあり、うまくいって、しあわせで、成功して、幸せそうに生きている人なのだと。(?)
生きている状態そのものを生きることはすべて「いまこうである」という現在進行形の連続にしか過ぎないと強く感じます。
昨日思ったことを今日変えることは当たり前だし、
さっきしたことをいま変えたっていいし、
同じまま何年も過ぎたっていいのだなと。
結局人間というわたしが何を思って行おうと「不変」ということは有り得ないし、何かしらの「変化」にはなるのです。
それをどんな感覚や思考で意図して生きるかはその時に選べるけれど
「なにか」という大したものがあるかないかも、もはやその中の変化の内でしかないと思う日々です。
だから諦めでも、焦りでも、上手くも下手も、なりたい物になるもならないも、やりたいことをやるもやらないも
すべては生きている状態の内の変化の中のひとつです。ただ生きているだけです。
何も推敲していない文章なのでただ書き流していますが、生きている状態そのものを生きていることを究めることはいいゾ、ということでした。終わり。
#生活 #生きること #目標 #変化