膨らむひとりごと

日々の散文

「自由に〜」というゾンビ

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自由に生きよう

好きなことをしよう

やりたいことをやろう

あなたの感じるままに

豊かに

生き生きと

じぶんを大切にしよう

他人に何を言われてもいい

ワクワクに従おう

感覚を大切にしよう

余計な〜を捨てよう

 

このあたりの内容、というか言い回しに飽きている。ここ何年か食傷気味。

というか妙に気持ち悪く感じる時がままある

こういう生き方や思想にわたしも助けられたこともあるし、何か悪いわけではな〜んにもないのだけど。

 

 

ただこうした言葉やある種の方向指示器みたいなものが乱発されてる時って、それはそれでまた過剰にある種のムーブメントに扇動されているのではないか?と思う。

 

この類のことを求めている時点で、というか世の中に溢れ持て囃されているということは、それだけ「それを言いたいひと」と「それを求めているひと」が多くいることの裏返しでもある。いかにも瑞々しく生命力あふれるこうした生き方は自己実現と社会的な承認欲求を同時に満たし「新しい自己定義」をすることができるし、即時的に精神へプラスの効果もあるだろう。

けれど、わたしにはなぜだか別種の定義に囚われたゾンビのように感じるのだ。

 

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自由という言葉の例をあげてみる。

「自由」という言葉が盛んに言われる時にはもはやそれは自由ではない。

なにしろ自由を自分や他人から定義された瞬間に、既にその意味の不自由の枠の中での「自由」になってしまうもの。

だから「自由な状態」で在ることは望ましいし非常に重きを置くけれど、「自由に〜」ということを鬼の首を取ったように殊更主張することは好きではない。

 

他の言葉や内容それぞれを照らし合わせてみても、選択肢の無限性や、主導権を自身が持つみたいなニュアンスが含まれている。あと考えるより感じろみたいな。

生き方に優劣があるかのような。

最近の言葉にこの優位性が端々に見え隠れしているのは現在までに至る前時代への静かな反抗の表れなのかもしれない。そしてそうした優劣がある限り一生本当に「自由」は有り得ない。

 

別種の定義に囚われたゾンビとはまさにこのことなのだ。

 

「不自由」を感じるが故に「自由」の定義や状態に囚われる

「普通」を感じるが故に「変」の定義や状態に囚われる

「他人」を重視しているが故に「自己」の定義や状態に囚われる

以下、色々当てはめてみることができるだろう…

 

つまり、結局この二極を内側を行ったり来たりしてるだけじゃないか。

極内移動ゾンビ。

 

「不自由」と「自由」を同時に感じるということはそもそも二極の内からしか世界を見ていない。他人や世から与えられる「定義」意外を自らが無為に創造し始めて、気づいた時にはもはや違う次元にいる。

自由は己の皮の内であり皮の外でもあり宇宙につながっているのだと思う。

 

そして何より、なんであろうが

今どういう生き物で生きていたいか?しかない。

じゃないとゾンビだよ〜〜〜

 

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