膨らむひとりごと

日々の散文

なにもしないということ

なにもしないということ

 

「なにもしない」ということはなんだろうか

一日なにもせずにただ過ごす

 

うすぼんやりした日でも遠くから蝉の声がきこえる

まだ夏を終わらせないぞ、とばかりに必死に鳴きつづける

彼らはただ鳴いている

一日鳴いている。

 

 

なにもせずに過ごす日を嘆く人がいる

なにかをした日となにもしない日にはどんな違いがあるというのだろう

 

予定がたくさんある日々を喜ぶ人がいる

予定がたくさんある日々とない日々にはどんな違いがあるというのだろう

 

わたしにはそれがとても不思議だった

問うてみたことがあるだろうか?

 

「なにかをすること」が魅力的で活動的であると思って疑わないのだろう

「なにもしないこと」が退屈で何も生み出さないと思って疑わないのだろう

 

人間はなにかすることに人生の多くの思考と時間を費やすが

なにもしないことにはとっても無頓着だ

そして時には罪悪感さえ感じていたりする

 

なにかをすることばかりを考えて、なにかをすることが最善だと行動して

なにもしないことを置いていく

なにもしないことを失っていく

 

そして気づくと「なにかをすること」でしか生きることをしなくなる

それにさえ、そもそも気づくことなく生きている

 

生命力のバネを感じられるのは「なにかをすること」だ

しかし「なにもしない」には生命の原点がある

 

 

「なにもしない」は、どんなにしても「なにもしない」にはなれないのだ

 

みんな息を吸って吐く

植物も昆虫も動物も

 

「なにもしない」を愚かにする限り

「なにかをする」は継ぎ足しては枯れる燃料だろう

 

 

なにもしないは顰蹙も買う、怒られもする、怠惰だとも言われる

そういう目は気になったことはあまりない

右から左へ抜けていく

なにもしないを感得しようとしなければ、そう見えてしまうのも仕方のないことなのだろう

 

わたしには子どもの頃から「なにもしない」ことが大切で尊い

なにもしないことは何かとよく考える

でもその時点でなにもしてるのだ

 

だからなにもしないを頭ではなく体でする

なにもしないを体でするとはどういうことか

なにもしないでぜひ体感してみてほしい。

 

なにもしない一日の終わりに